朱莉が電話を切ると、早速京極が話しかけてきた。「朱莉さん。先程の彼も今沖縄にいるのですね。明日、皆さんと合流されるのですか? でも何故副社長の秘書である九条さんも沖縄へ行かれているのですか? 本当は何か沖縄でトラブルが起こったのではないですか?」「京極さん……」 彼はマロンを引き取ってくれた恩人だ。だけど、これ以上何か口を開けば翔との契約婚を見抜かれてしまうかもしれない。万一世間にばれてしまえば、大変なことになってしまう。(私がもっとうまく立ち回ることが出来たなら……こんなことにはならなかったかもしれないのに……)京極に心配をかけ、九条や翔。そして明日香に迷惑を掛けてしまうことになるかもしれない。自分一人ならいくらでも犠牲になっても朱莉は構わないと思っている。けれど、どうすれば今の危機的状況を脱することが出来るのか、もう朱莉には分からなくなってしまっていた。すると京極がため息をついた。「朱莉さん……。僕は先ほども言いましたが、他の人達はいざ知らず、貴女だけは困らせたくは無いんです」朱莉は黙って京極を見つめた。「貴女が困るのであれば……いいでしょう。僕はこれ以上あなた方の関係を追及するのはもう止めます。九条さんにも言われましたが、考えてみれば僕は第三者の人間ですから、口を挟む権利なんか初めから有りませからね。だけどこれだけは教えてください。貴女が沖縄へ行く本当の理由を教えて下さい。お願いします。僕は貴女が本当に心配なんです」そして京極は頭を下げてきた。一方、これに驚いたのは朱莉の方だ。「そ、そんな京極さん。どうか頭を上げてください。それに京極さんはマロンを引き取ってくれた恩人ですから」(私を気の毒に思って京極さんはマロンを引き取ってくれたのだから……何もかも黙っている訳にはいかないわ……)「分かりました。沖縄で何があったのかお話しま………」そう。別に全てを話す必要は無いのだ。(皆さん。ごめんなさい……)朱莉は心の中で謝罪をすると重たい口を開いた。「実は……沖縄で明日香さんが体調を崩して入院してしまったんです。当分の間は絶対安静らしくて……それで私が沖縄に行って……その、明日香さんの身の周りのお手伝いを……」朱莉はテーブルの下で両手をギュッと握りしめながら京極を見つめる。(大丈夫、全てを話している訳じゃないけど、嘘をついているわ
「では、朱莉さん。そろそろ帰りましょうか? 明日の準備もあるでしょうし。お引止めしてすみませんでした。映画は……そうですね。少し照れ臭いけど母と2人で観に行って来ることにします」京極は照れ笑いする。「そうですか……お母様と」(お母さん……早く元気になったら一緒に出掛けたいな……) 2人並んで歩きながら、京極はマロンの様子を朱莉に詳しく教えてくれた。あれ以来マロンはとても元気に遊びまわっていると言う。それを聞いて朱莉は安心した。**** 億ションへと続く並木道を歩きながら京極が話しかけている。「朱莉さん。明日の飛行機の時間は何時の便ですか?」「はい、御前10時の便になります」「10時ですか……なら僕が車で羽田空港まで送りますよ。荷物もあるでしょうし」朱莉は京極の提案に驚いて慌てた。「そんな! とんでもないですよ。沖縄へ持って行く荷物はもう先に郵送手続きをしたんです。本当に身軽な格好で行くので大丈夫ですから」「いえ、送ります。送らせて下さい」京極は立ち止まると朱莉をじっと見つめた。その顔はとても真剣で、そこまで強く申し出をされれば朱莉は頷くしか無かった。「すみません……お仕事もあるのにご迷惑を……」「迷惑だなんて言わないで下さい。だって僕から申し出たんですから。でも……そうですね。もしそう感じられるのであれば……朱莉さんの沖縄の住所を教えて下さい」「え? わ、分かりました。では決まったらメッセージで送りますね」「ありがとうございます」京極は満足そうに笑みを浮かべた—― 億ションの前で別れた後、朱莉はエレベーターに乗り込み溜息をついた。(翔先輩の電話が切れて九条さんから電話があったってことはきっと翔先輩が電話に出なかった私を気に掛けて九条さんに連絡を入れてくれたんだろうな……。どうしよう、心配かけさせちゃった。部屋に戻ったらすぐに謝罪のメッセージを送ろう。それに九条さんにも迷惑かけちゃったから電話もいれないと……)朱莉は頭の中で部屋に帰ったらやるべきことを頭の中に思い浮かべるのだった——****ここは沖縄の病院――ふさぎ込んだ琢磨が明日香の入院している個室の椅子に座っている。「ちょっと、仮にも私の前でそんな辛気臭い顔しないでくれる? こっち迄気がめいってくるわ」明日香が雑誌を閉じると琢磨に言った。しかし、琢磨はその台詞
「ただいま……」朱莉は肉体的にも精神的にも疲弊しきっていた。何とか気力で自分の部屋の扉の前に辿り着くと、鍵をと出してドアを開けた。するとドアを開けると同時にスマホにメッセージが届いた。相手は琢磨からであった。「九条さん……。電話しようと思っていたのに、先にメッセージが届くなんて……」朱莉はスマホをタップして画面を確認した。『朱莉さん、25歳の誕生日おめでとう。1日遅れになるけど、明日何かお祝いしよう』メッセージにはハッピーバースディのメロディーと、ケーキの上に乗せたろうそくがパチパチと燃えている動画が添付されている。「履歴書で私の誕生日覚えていてくれたんだ……ふふ。可愛い動画。わざわざ探して、添付してくれたのかな?」その姿を思い浮かべ、思わず朱莉の顔に笑みが浮かぶ。ここ何年も誕生日のお祝いの言葉は母からしか貰っていなかっただけに、朱莉は嬉しく思い、スマホをギュッと握りしめた。(九条さんて、本当に気配りが出来る人なんだ……だから仕事も出来て、翔先輩の秘書を務めていられるんだろうな……)でも……朱莉が一番お祝いの言葉をかけて欲しい相手からは……。「翔先輩は、きっと今頃明日香さんと一緒にいるんだろうな……」朱莉は寂し気に呟き、部屋に入ると琢磨にお礼と謝罪のメッセージを送ることにした。本当は電話の方が良いかもしれないが、京極のことを聞かれたくはなかったからだ。『九条さん。本日はご迷惑をおかけしてしまい、大変申し訳ございませんでした。誕生日のメッセージ、とても嬉しいです。明日からまたお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします』メッセージ内容を確認すると琢磨に送信し、次は翔に電話に出ることが出来なかった詫びのメッセージを送ることにした。『本日は、電話に出ることが出来ずに大変申し訳ございませんでした。明日、沖縄へ行きます。どうぞよろしくお願いいたします。明日香さんにもお伝えください』「……これでいいわね」翔にメッセージを送ると、朱莉はネイビーに水と餌を与える為にリビングへ向かった——「ネイビー。明日は暫くの間ケージの中にいないといけないけど、我慢してね」餌を食べているネイビーの背中を撫でながら朱莉は語りかけるのだった……。 その夜――朱莉の元に病院にいる母から電話が入った。誕生日のお祝いの言葉と気を付けて沖縄へ行くように母から言
今日は朱莉が沖縄へ旅立つ日である。朱莉は6時半に起きると、手早く朝食を取って準備を始めた。 その時、朱莉は2台のスマホに翔と琢磨、それぞれからメッセージの返信が入っていることに気が付いた。琢磨からは羽田空港で何か不明な点があったら連絡するようにと書かれており、翔からは気を付けて沖縄に来るようにと書かれていた。朱莉は翔からのメッセージを見て笑みを浮かべた。(翔先輩、少しは私のこと気にかけてくれてるのなかな……?)すると、再び朱莉の個人用スマホにメッセージの着信を知らせるメロディーが流れた。その相手は京極からだった。『朱莉さん、8時半にドッグランの前で待っていて下さい』短い文章で時刻と場所だけを指定してあった。そこで朱莉はすぐにお礼のメッセージを送り、出発する準備の続きを再開した—―—―8時半朱莉はジーンズ姿にTシャツ、上にブラウスを羽織った姿でドッグランの前で待っていると、すぐに京極がベンツに乗って現れた。「おはようございます、朱莉さん。お待たせしてしまいましたか?」「おはようございます。いいえ、たった今来たばかりなので全然待っていませんから大丈夫です」朱莉は頭を下げて京極に挨拶をした。「荷物はそれで全部ですか?」京極は朱莉の足元に置かれたキャリーケースに肩から下げたキャリーバッグを見つめる。「はい、これだけです。少ないでしょう?」朱莉は笑みを浮かべた。「あの……所で朱莉さん。そのキャリーバックの中身は何でしょう?」京極に尋ねられ、朱莉は眼を伏せると頭を下げた。「申し訳ございません。実はマロンを手放した後、あ、あのウサギなら……アレルギーが無いから大丈夫と主人に言われて……」こんな嘘が勘の良い京極に通じるだろうか?しかし京極はニコリと笑う。「別に謝ることはありませんよ。要するに御主人からウサギなら飼ってもいいと言われたんですよね?」「え……?」俯いて朱莉は顔を上げた。まさかあの京極が苦し紛れの嘘を信用するなんて。「信じますよ。他の人の言葉ならないざ知らず……僕は貴女の言う言葉なら何だってね」それはとても真剣な眼差しだった。「京極さん……」京極からそのような言葉を言われると、朱莉はますます罪悪感という鎖で自分が縛られていくように感じた。(どうしてこの人はここまで私を……?)人の良い京極に嘘をつくのは本当に心苦し
朱莉と京極は第1旅客ターミナルに来ていた。「あ、あの……京極さん。本当にもうここまでで結構ですから」朱莉はIT企業の社長という立場にある京極に自分のような者に付き添ってもらうのが申し訳なく、何度も断りを述べた。「いえ、いいんですよ。今はゴールデンウィーク期間中で、僕は暇人なんですから」京極は笑顔で言う。「ひ、暇人って……」(そんなはずは無いのに……。だってここへ向かう間も何回もメッセージや電話がかかってきて、京極さんは全て対応してきたのに)「それより朱莉さん。思った以上に道路が空いていたので余裕をもって羽田に着くことが出来たので、何処かで珈琲でも飲みませんか?」「は、はい」もう搭乗手続きも済んでいるし、荷物も預けている。世話になった京極の為に自分が出来るのは彼の要望に応えてあげることだろう……朱莉はそう思って返事をした。 2人で近くにあるカフェに入り、朱莉はアイス・カフェ・ラテを、京極はアイス・ティーをそれぞれ注文し、2人掛けの丸テーブルに座ると京極が話しかけてきた。「明るい日の光で朱莉さんを見て思ったのですが……朱莉さんの瞳はよく見ると黒では無く、ブラウンの瞳をしているんですね」「はい。実は父方の祖父がイギリス人なんです。もっとも祖父は早くに亡くなったそうで、私は会ったことも無いのですけど」すると京極は頬杖をつくと真顔で言った。「ふ~ん……だからだったんですね。朱莉さんが人並み以上に美しい容姿をしているのは」「え……ええっ!?」あまりの唐突な京極の言葉に朱莉は顔が真っ赤になってしまった。「そ、そんな大げさな……今迄一度だって誰からもそんな風に言われたことありませんよ」朱莉は慌てて下を向くとストローでアイス・カフェ・ラテを飲んだ。「そうなんですか? あの九条さんにも言われたことが無いのですか?」いきなり京極の口から琢磨の名前が出てきたので朱莉は驚いた。「な、何故そこで九条さんの名前が出てくるのですか?」そう、普通に考えればそこで名前が出てくるのは琢磨ではなく、夫である翔のはずなのに何故か京極は琢磨の名前を出してきた。「いえ。何となくそう思っただけです。深い意味はありませんよ」そしてニコリと笑う。「……」朱莉は黙って京極を見た。朱莉の方こそ京極の行動が謎で仕方が無かった。京極は背も高く、スポーツマンタイプに見える
明日香が入院している特別個室に翔、琢磨、明日香の3人の姿があった。翔と琢磨はそれぞれPCに向って仕事をしている。そして明日香は液晶タブレットでイラストを描いていたが、やがてペンを置くと伸びをした。「う~ん……やっと終わったわ」「明日香、仕事が終わったのか?」翔はPCから視線を上げると明日香を見た。「ええ。終わったわ、今回の依頼はゲラを早く貰えたのよ。だから余裕をもって読むことが出来たからね」「明日香は速読が得意だからな。1〜2回読み込むことぐらい簡単だろう?」翔が明日香の描いたイラストを覗きこんだ。そこには血まみれの人形を抱えた青白い顔の女性が廃墟の中に佇む不気味なイラストが描かれている。「うっ! あ、明日香……。今回のイラストなんだが……どんな内容の小説なんだ……?」翔は顔をしかめた。「ええ。呪われた人形を偶然手に入れてしまった女性に次々と襲い掛かる恐怖の世界を綴った小説よ。この作家さんは新進気鋭のホラー小説家らしいわ」「明日香のイラストは評判がいいからな。イラストレーターとして知名度も高いし。でもあまり無理に仕事をするなよ? 今は安静にしていないと……」翔は明日香の頭を撫でると、今迄無言だった琢磨が乱暴に椅子から立ち上った。「ちょ、ちょっと琢磨! 驚かせないでよっ!」「どうしたんだ? 突然」2人の問いかけに琢磨は乱暴に答える。「別にっ! そろそろ朱莉さんの乗った便が到着する頃だから俺はもう飛行場へ行くからな」どこかイライラしている琢磨の口調に翔は不思議に思った。「え? おい、琢磨。まだ到着までには1時間近くあるぞ? 何もそんなに急がなくても……」「あのなあ、この部屋にはどう見も俺はお邪魔虫だろう? だから早めに空港へ行って待ってるんだよ!」「あら、琢磨。気が利くじゃないの。でも本当の理由は違うんじゃないの? 朱莉さんから一度も連絡がなかったからイラついてるんじゃないの?」明日香の言葉に翔は琢磨を見た。「え? そうなのか? 琢磨」「う……!」(こ、こいつら……なんて無神経なこと言うんだ? 人の気も知らないで……!)琢磨は2人をジロリと睨み付けると明日香がわざとらしく肩をすくめる。「おお、怖い。朱莉さんは琢磨のこんな本性を知ってるのかしらね?」「うるさい! 明日香ちゃんにだけはそんな台詞言われたくないな!」
12時40分――朱莉を乗せた飛行機が那覇空港に到着した。荷物を受け取り、到着ロビーに行くとそこにはすでに琢磨の姿があった。「朱莉さん、こっちだよ!」琢磨が笑顔で手を振って朱莉に呼びかけている。先程までの琢磨とはまるで別人のようである。(とてもじゃないが、今の俺の姿をあの2人には見せられないな)「こんにちは、九条さん。御忙しい所お迎えに来ていただきまして本当にありがとうございます」朱莉は丁寧に頭を下げた。「いや、だって強引に沖縄へ呼んだのは俺達だから迎えに来るのは当然さ。それで翔なんだが……」「ええ。明日香さんに付き添っていらっしゃるんですよね? それは当然のことですから」「朱莉さん……」「それよりも九条さん。お電話できなくてすみませんでした。心配されましたよね?」朱莉は頭を下げた。「うん。まあ心配はしたかな? とりあえず歩きながら話そう。まずはネイビーを預かってくれるペットホテルへ行こうか」琢磨の言葉に朱莉はアッと思った。「そ、そう言えばホテルにはペットを入れてはいけないんですよね? すっかりそんなこと忘れていました。九条さん、本当に何から何まですみません」「ハハハ……そんなに恐縮しなくていいよ。朱莉さんはあまり旅行とか慣れていないんだろう? 分からなくても当然さ。俺が朱莉さんを呼んだんだから、任せてくれ」**** やがて2人は駐車場に着いた。「あの、タクシーを使わないんですか?」「ああ、沖縄の交通手段と言ったらレンタカーが一般的なのさ。ほら、これだよ」琢磨は白い軽自動車のミニバンをを指さした。「さあ、乗って」車に乗り込むと朱莉は車内をキョロキョロ見渡した。「うわあ……可愛らしい車ですね。私も免許を取ったらこういうタイプの車にしようかな」「そうだね。それじゃ出発しよう」運転しながら琢磨は朱莉の嬉しそうな横顔を見て思った。(良かった……この車にして)「この車は軽自動車だし女性向きの仕様だからいいと思うよ。車を買うときは俺に声をかけてくれれば一緒に選びに行ってあげるよ」「な、何を言ってるんですか。九条さん。私の車を買う為にお付き合いいただくなんてそんな真似させられませんよ。私なら大丈夫です。車位1人で選べますから」「そうか。それは残念だな」「え?」朱莉の反応に琢磨は焦った。(しまった! つい本音を口走って
ネイビーをペットホテルに預けた後、琢磨は次に朱莉の宿泊するホテルに向かうことにした。「本当に運が良かったよ。何とか那覇市内でホテルを1件予約することが出来たんだ。沖縄で一番宿泊施設が多いのは何と言っても那覇市だからね。立地条件もいいし、明日香ちゃんが入院している病院も那覇市内にあるから」ハンドルを握りながら琢磨が説明する。「明日香さんの具合はどうなんですか?」「実はあまり詳しく知らないんだ。ベッドの上で休んでいなければならないけど、仕事は出来るみたいだし」「え? 仕事……? 明日香さんてどんな仕事をしてるのですか?」「あれ? 朱莉さんはもしかして知らなかったのかい? 明日香ちゃんはイラストレーターなんだよ。おもに小説の表紙のイラストを描いているよ。以前は文芸作品が多かったけど、最近はライトノベルにも描いているみたいだね。後は……あ、そうだ。アプリゲームのキャラクターデザインも手掛けたことがあるって言ってたっけな?」琢磨の話に朱莉は驚いていた。「そうだったんですか? 明日香さんてそんなに凄い方だったんですね」(だから明日香さんはあんなに自信に満ちて綺麗なんだ……。それに比べると私は学歴も無いし、何かに秀でている才能も無い……。これじゃ翔先輩が明日香さんを好きになるのも当然だよね……)「どうしたんだ? 朱莉さん。もしかして疲れたのかい?」急に静かになった朱莉を気遣って琢磨が声を掛ける。「いいえ、大丈夫です。でも少しお腹が空いた……かも……」朱莉は真っ赤になって俯いた。「あ……! ご、ごめん! まだだお昼食べていなかったんだね。まあ俺もまだなんだけど……。それじゃ先に何処かでお昼を食べに行こうか。何がいい?」「私はどこでもいいですよ? ファミレスでも構わないです」「いや、わざわざ沖縄に来ているのにファミレスじゃ味気ないだろう? う~ん……」「あ、あのソーキそばはどうですか?」朱莉の言葉に琢磨は頷いた。「うん。ソーキそばか……いいねそれにしても朱莉さん沖縄は初めてなのにそのそばのこと知ってたんだね。 もしかして事前に調べていたのかい?」「いえ。京極さんに……」言いかけて慌てて朱莉は口を閉じた。(いけない、九条さんにあまり京極さんの話をしたら……)朱莉は今琢磨がどんな顔をしているかチラリと見たが、別に普段と変わらない様子の琢磨
航と琢磨は互いにエントランスで睨み合っていた。朱莉の姿がいなくなると最初に口を開いたのは琢磨の方だった。「名前は聞かされていなかったけど君なんだろう? 興信所の調査員で、仕事の為に沖縄に来て朱莉さんと知り合って、同居していたって言うのは」「ああ、そうさ。朱莉、あんたに俺のこと話していたんだな?」航はニヤリと笑った。「どうやらお前は相当口が悪いみたいだな? だったらこちらも遠慮するのはもうやめるか」「へえ? あんたは京極とはタイプが違うんだな?」「何? 京極のことを知ってるのか?」「その反応からするとあんたも京極のことを良くは思っていないようだな?」琢磨は航の口ぶりから警戒心をあらわにした。「お前一体どこまで知ってるんだ? 興信所の調査員だって言ってたな? ひょっとして朱莉さんと知り合ったのも俺達絡みの件でか?」「へえ? その口ぶりだと心当たりがありそうだな? だが俺がそんなこと話すと思うのか? 仮にも俺は調査員だからな」航は挑発をやめない。そもそも朱莉と翔の偽装結婚のきっかけを作った琢磨が憎くて堪らなかった。(九条の奴が朱莉をあんな奴に紹介さえしなければ……)そう思うと琢磨に対する怒りがどうにも抑えられない。琢磨も初めの内は何故自分が航から敵意のこもった目で睨まれるのか見当がつかなかったが、調査員と言うことを考えれば、今迄の経緯を全て知ってるかもしれないと気付いた。(ここで話をするのはまずいな……)「おい、どうした? 急に黙って」航は怪訝そうな顔を見せた。「取りあえず……ここで話をするのは色々とまずい」「あ、ああ。言われてみればそうだな」航も辺りを見渡しながら、京極に言われた言葉を思い出した。「あまり遅くなると朱莉さんが心配する。取りあえず話は後にしよう。もし時間があるなら朱莉さんの手料理を食べた後場所を変えて話をしないか?」琢磨は航に提案した。「ああ。それでいいぜ。あんたには言いたいことが山ほどあるからな」航の言葉に、琢磨は不敵な笑みを浮かべる。「ふ~ん。どんな話が聞けるかそれは楽しみだ」そして2人の男は互いを見つめ……「「取りあえず荷物を降ろすか」」声を揃えた――****「航君と九条さん、遅いな……」料理を作りながら朱莉はソワソワしていた。「喧嘩とかしていたらどうしよう……。迎えに行ってみよう
琢磨は雨に打たれながら、朱莉と航が抱き合ている姿を呆然と見ていた。(誰なんだ……? あの男……航君と呼んでいたけど、まさか朱莉さんが沖縄で同居していた男なのか?)気付けば琢磨は歯を食いしばり、両手を強く握りしめていた。そして一度自分を落ち着かせる為に深呼吸すると、2人に近寄って声をかけた。「朱莉さん。その人は誰だい?」すると、その時航は初めて朱莉から離れて顔を上げ、琢磨の顔を見ると表情を変えた。「あ……あんたは九条琢磨……」(何? この男は俺のことを知っているのか?)そこで琢磨は尋ねた。「君は何故俺のことを知っているんだい?」すると航は言った。「そんなのは当たり前だろう? 自分がどれだけ有名人か分かっていないのか? 元鳴海グループの副社長の秘書。そして今は【ラージウェアハウス】の若き社長だからな」「そうか……。それで君は?」琢磨はイラついた様子で航を見た。航は先ほどからピタリと朱莉に張り付いて離れない。それがどうにも気に入らなかった。「あの、九条さん。彼は……」朱莉は琢磨のいつもとは違う様子に気付き、口を開きかけた所を航が止めた。「いいよ、朱莉。俺から自己紹介するから」その言葉を聞き、琢磨は眉が上がった。(朱莉……? 朱莉さんのことを呼び捨てにしているのか!? どう見ても朱莉さんよりは年下に見えるこの男は……)「俺は安西航。仕事で沖縄へ行った時に朱莉と知り合って1週間程あのマンションで同居させて貰っていたんだ。貴方ですよね? 朱莉の為にあのマンションを選んでくれたのは。2LDKだったからお陰で助かりましたよ」何処か挑発的に言う航。腹の中は怒りで煮えたぎっていた。(くそ……っ! この男が朱莉を鳴海翔に紹介しなければ朱莉はこんな目に遭う事は無かったのに……! それにしても悔しいが、顔は確かにいいな……)琢磨は何故航がこれ程自分を睨み付けているのか見当がつかなかった。(ひょっとしてこの男は朱莉さんのことが好きだから俺を目の敵にしてるのか?)一方、困ってしまったのは朱莉の方だ。まさか今迄音信不通だった航が突然自分の住んでいる億ションに現れるとは夢にも思っていなかったからだ。航とは話がしたいと思っていたので朱莉は提案した。「あの……取りあえず中へ入りませんか? 食事を用意するので」すると航は笑顔になった。「いいのか? 朱
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と
「それじゃ、朱莉さん。次は翔から何か言ってくるかもしれないけど、くれぐれもアイツの滅茶苦茶な要求には答えたら駄目だからな?」タクシーに乗り込む直前の朱莉に琢磨は念を押した。「九条さんは随分心配性なんですね。私なら大丈夫ですから」朱莉は笑みを浮かべた。「もし翔から契約内容を変更したいと言ってきたら……そうだな。まずは俺に相談してから決めると返事をすればいい」するとタクシー運転手が話しかけてきた。「すみません。後が詰まってるので……出発させて貰いたいのですが……」「あ! すみません!」琢磨は慌ててタクシーから離れると、朱莉が乗り込んだ。車内で朱莉が琢磨に頭を下げる姿が見えたので、琢磨は手を振るとタクシーは走り去って行った。「ふう……」タクシーの後姿を見届けると、琢磨はスマホを取り出して、電話をかけた。「もしもし……はい。そうです。今別れた所です。……ええ。きちんと伝えましたよ。……後はお任せします。え? ……いいのかって? ……あなたなら何とかしてくれるでしょう? それだけの力があるのですから。……失礼します」そして電話を切ると、夜空を見上げた。「雨になりそうだな……」**** 翌朝――6時朱莉はベッドの中で目を覚ました。昨夜は琢磨から聞いた翔の伝言で頭がいっぱいで、まともに眠ることが出来なかった。寝不足でぼんやりする頭で起きて、着替えをするとカーテンを開けた。「あ……雨……。どうりで薄暗いと思った……」今日は朱莉の車が沖縄から届く日になっている。車が届いたら朱莉は新生児に効かせる為のCDを買いに行こうと思っていた。これから複雑な環境の中で育っていく子供だ。せめて綺麗な音楽に触れて、情操教育を養ってあげたいと朱莉は考えていた。洗濯物を回しながら朝食の準備をしていると、翔との連絡用のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(まさか、翔先輩!?)朱莉はすぐに料理の手を止め、スマホを見るとやはり翔からのメッセージだった。今朝は一体どんな内容が書かれているのだろう? 翔からの連絡は嬉しさの反面、怖さも感じる。好きな人からの連絡なのだから嬉しい気持ちは確かにあるのだが問題はその中身である。大抵翔からのメールは朱莉の心を深く傷つける内容が殆どを占めている。(やっぱり契約内容の変更についてなのかなあ……)朱莉はスマホをタップした。『おは
「本当はこんなこと、朱莉さんに言いたくは無かった。だが翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら? 恐らく翔のことだ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんなこと、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて絶対にあってはいけないんだ」琢磨は顔を歪めた。(え……無期限に明日香さんの子供の面倒を? それってつまり偽装婚も無期限ってこと……?)なので朱莉は琢磨に尋ねた。「あの……それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする……ということでもあるのですよね?」(そうしたら、私……もう少しだけ翔先輩と関わっていけるってことなのかな?)しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれることになる。「いや、翔の言いたいことはそうじゃないんだ。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども子育てに関しては明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいってことなんだよ」「え……?」「つまり、翔は3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる。しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話あり得ると思うかい?」「……」朱莉はすっかり気落ちしてしまった。(やっぱり……ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは所詮叶わないことなの? でも……)「九条さん」朱莉は顔を上げた。「何だい」「私、明日香さんと翔さんの赤ちゃんを今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らすことが待ちきれなくて……」「朱莉さん……」「九条さん。もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね? それって……翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いにとって精神面に悪影響が出るのではと苦慮して私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか? だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると